エッセイっていいよね
おすすめを紹介するにあたり、同一カテゴリ(小説もエッセイも活字媒体)の連投は幅の狭さを露見してるみたいでちょっと気恥ずかしいのだけれど、潜考の末もう一作紹介することにした。
小説はフィクション。エッセイはノンフィクション。活字媒体という点では同じだが、まったく違うものなのでご容赦願いたい。
こっちの記事を最初に読んでいるとしたら時系列的には後に書いているものなので、小説に対する思いは前編を参照してほしいのだが、後編用にエッセイverとして自分の黒歴史を一つまみ。
僕は文章を書くのが苦手で、たぶん下手なんだと思う。仕事で一番受けた出し戻しは論理展開でも分析不足でも資料の清美さでもなく「日本語が下手」という戻し。
なんなら8年目も中盤に差し掛かる今でさえ日本語の不出来を指摘されることがしばしば。
どうにも回りくどく煙に巻いたような文章らしく、大学生の頃、日銀副総裁から直々に「君は金融には向かないから吉本にでも入ったほうがいいな」と言われたことがあるし、新人の軽井沢研修の時には「あってるのか間違ってるのかはわからないが、あってるっぽく話すのが得意なんだね」とどこぞの偉い人に言われた。あいつ誰だったんだ…??
おそらく文章の悪癖を産んだのは高校生の頃。森博嗣のタッチに憧れエッセイを写経していた時期があった。
森博嗣の文章は決して回りくどい所はなく、知的なかっこよさがあるのだが、間違った形でエッセンスを抽出してしまったことが敗因。簡潔に書いているつもりなんだけど、なんだか文体みたいなしょうもないことを真似てしまっているんだと思う。
そもそも好きな作家の写経をするという行為が十分痛々しい。悪癖を伴う黒歴史というのだから、質が悪い。
それでも森博嗣には罪はない。今回は紹介しないが、森博嗣のクリームシリーズ。とってもよいので、とってもおすすめ。
で、おすすめはなにさ
閑話休題。どうしても紹介したかったエッセイは
「そうか、もう君はいないのか」
妻との出会いから別れの日までが描かれているもので、156ページと短め。集中すれば2時間ちょっとで読める分量(文量?)。
小説とは違ってエッセイということもあり、特に激動の展開はなく妻との出会いから離別までを淡々と描く本作。本書には「愛」が散りばめられている。
筆者と妻、娘と親子、相互にある信頼と敬意が織り交じった愛。とにもかくにも愛まみれに相まみえる一作。
お話としてはありふれたもの。ネタバレもくそもないが、戦後まだ自由恋愛の息吹も薄い中、いろいろな偶然を経て二人は出会いご結婚。その後ちょっとした苦難を乗り越え、最後には妻が先立つ。
要はこんな話だし、まぁタイトルを見れば奥さんが先に逝くこともわかる。
特に予想を超える展開はないし、とんでもない激動の時代を二人で苦難しながら乗り越えた、という風でもあまりない。
ただあまりにも自然に、あまりにも美しい二人の関係が筆の端々から香り立つ。
というより、城山さん(ペンネームだが)の奥さんへの愛が異常なまでに伝わってくる。筆者が晩年に筆を執りしたためたものを娘が編纂し出版したというものらしいが、こっぱずかしくなるほどの愛であり、信頼であり、敬意だ。
例えば自分のパートナーとの初めての出会いは
”くすんだ図書館の建物には不似合いな華やかさで、間違って、天から妖精が落ちて来た感じ”
いかに文筆家とはいえ、現実のパートナーをかくもロマンチックに表現することはまぁまぁ憚られる。それでも「妖精」「天から落ちて来た」と書けるのは、きっと本心だからだろう。
また、二人の想い出も事細かに覚え、したためられている。
ある旅で飛行機からオーロラが見えた時のこと。
”色と輝きを刻々変えながら、空いっぱいのびやかに、光の幕はゆれ動き、舞い続ける。それも、ふと伸ばした手が届いてしまうような距離で。まるで私たち夫婦のためにのみ、天が演じてくれている。”
ただのヨーロッパ旅行。しかも、海外旅行自体は二人にとって特別ではなく、仕事の関係もありよく出かけていたようなのだ。その中のほんの些細な一幕を、二人を主役に据えて情緒的・詩的に描き、記憶・そして形に残している。
あるいは妻の欠点すらも、どうにも愛らしい。どうやら欠点らしい欠点は「ときどき約束の時間に遅れること」らしい。
ある時妻が先着していた時のこと、約束時間を守ったというだけのことをいたく誇らしげにしていた。そんな数十年の連れ合いからすれば瑣末なエピソードもすら筆者の中にしっかりと刻まれており、ほほえましく、あるいは愛をもって描かれている。
こうしたタッチの端々に、きっと二人の時間は尊く、美しく、城山さんにとってかけがえのないものだったのだと第三者たる我々にしかと伝えてくる。
愛とは「愛している」という言葉では表現できず、「色鮮やかな想い出」で表現されるものかもしれない。
本作は上述の通り、晩年の執筆によるものであり、刊行は筆者の死後である。娘が編纂し、後記をつけている。
本編は筆者から見た妻、後記は娘から見た夫婦。そして妻を失ってからの筆者の姿が書かれている。妻に先立たれ、一人になった筆者の姿。
”連れ合いを亡くすということは、これほどのことだったのか。子や孫は慰めにはなっても代わりにはなれない。ポッカリ空いたその穴を埋めることは決してできなかった”
娘がそう感じるほどの喪失感。妻を失ってから7年間の葛藤や苦しみは決して美しいものではなく、きっと本当に半身を失ったようなものなのだろう。
その様を知って、改めて本編を読み返すと、城山さんにとっての「黄金の日日」がきっと込められていたんだと伝わってくる。
愛だの恋だのは哲学で、きっと正解はないし人それぞれの定義がある。だけどもきっと、「信頼」と「敬意」でつながった二人の関係は紛れもなく愛であり、一つの理想の在り方なんだと僕は思う。
活字媒体は自分の価値観との真っ向勝負だと思っていて、前編の小説篇でも己の価値観との照らし合わせと語ったが、本作でも同じく「人として大切にしたい気持ち」を浮き彫りにできる、はず。
多くの人は友人や恋人や、たくさんの人との交流をもって自己を形成すると思うのだけど、僕のような根がくらい人間は、受け入れられるか不安で、心の底を他人にはあまり見せたくないし、覗かれたくない。
だからこんなに活字と向き合い自我・自己を形成してきた。紛れもなく本書は自己を形成してくれた一つであり、とっても大切な一冊なので、もし機会があったらぜひ読んでみてほしい。
高橋は明るいので、活字にたよらなくても立派に自己を形成できているだろうが、いつか愛について考える時が来たら、ひょっとすると役に立つかもね。
最後に、本作でもたびたび登場し、僕も好きな言葉で高橋を送別したい。
”静かに行くものは、健やかに行く。健やかに行くものは遠くまで行く”
どうか高橋の今後の旅路が健やかで遠くまでいけますように。